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3.自ら職を求めて(平成1年10月〜平成2年11月)

 円満退職したが、やはり完全リタイアという訳には行かない。新聞広告を見てなりふり構わず、新聞に求職広告のあった建設関係の調査会社へ飛び込んだ。全く未経験の分野で弱りきったが、何とか1年1ケ月頑張った。なにしろ極端な表現かもしれないが、用語も分らない。五里霧中だった。しかし、この経験がものを言うことになる。
  その第一は、ワープロ専用機を曲がりなりにも使いこなしたことである。今でもパソコンに親しんでいるのはこの経験が生きている。需要家からの絶え間ない催促におびえ、ワープロを半ベソをかきながら打ったことも今となっては懐かしい。この会社に入社する寸前に印象深いことがあった。コスモ石油のことだが、実は、中国精油にまだいた頃、昭和63年10月末で私のコスモ籍は無くなった。このときは、当時の住吉社長をはじめ役員の方々も臨席のもと八重洲口で別れ会をやって頂いたのは覚えているが。出向期間が人一倍長かった私は、挨拶に回る場所が無い。何しろ、浦島太郎の一人旅みたいなものだったから何となくケジメを欠いた気持ちが心の隅にあった。ところがタイミングよく千葉製油所品質管理課でOB会があったので喜んで参加した。これで完全にふっきれた。おまけにその翌日、中国精油でもパーティがあったので、二つの会社に別れを告げることができた。

4.ユカインダストリーズ時代(平成2年11月〜平成17年3月)

 ようやく、この期間にたどり着いた。編集される方の目的と大きく食い違ったかもしれない。駄文を並べ立てて申し訳ない。前置きは別にして、前記の市場調査会社に別れを告げ、サラリーマン生活最後の場面となった。前記の調査会社に問題があったわけでは決して無い。平成2年7月ごろ、当時鶴見油脂に出向ののち専属となった末弘さんから突然電話があり、「環境計量士を求めている会社がある。」とのこと。
 その会社というのが「ユカインダストリーズ」だった。前後を考えず、この話に飛びついた。9月頃から週に1回の午前中駐在して帰社の形をとっていたが、二重国籍みたいで、不安定な事実は否めない。そこで思い切って「ユカインダストリーズ」にお世話になることにした。調査会社とも円満退社だったので、その後も一度きりだが行事に参加したこともある。
 新しい職場に移ったが、環境の仕事があったわけではない。もともと、この会社は、高圧絶縁油の再生を生業としていたが。試験研究部門を独立させた経緯がある。PCB混入が問題となって測定体制を整備しようとの意向と変電所の排水の管理というれっきとした目的があったのだが、色々の事情が重なり結局実現できなかった。
 しかし、遊んでいるわけには行かないので、絶縁油分析のお手伝いをした。この会社が、環境測定を社業のひとつに加えなかったのは、もちろんいろいろの事情があるにせよ、私の存在は宙に浮いたわけで、一時はすっきりしなかったが、すぐに気持ちを切り替えた。言い逃れするつもりはないが、結果オーライではなかったかと思う。
 理由の一つとして、環境測定だけで採算を得ることは容易ではなく、私の訪問した数社の例では、地方自治体への協力として、環境アセスメントに関する計算や、大気中の成分測定網の公設機器の吸収薬液交換ならびにデータ解析といったのを主とし分析そのものが主体という例が少なかった。たまたま見たことで全体を判断したわけではないが、かりに分析だけを売り物にするにせよ、多品目を揃えるのでなければ、そして相当な技術を総合的に所有しなければ、難しいのではないか。現に、法規改正の追い討ちもあり、PCBはダイオキシン類として一括され、環境計量事業所の登録だけでは、測定できないことに改められた。PCBに限らず、困難な問題も多様にあり、昭和50年台、はじめは、物珍しさで登録した環境計量事業所の数も登録辞退続出で、減少の一途をたどっているやに聴く。この会社の本来の仕事である高圧絶縁油総合評価を例にとると、分析測定値を単純に報告するのではなく、総合的な状況判断から油の余寿命・適切な交換時期を判断する技法が需要家のニーズに応えていたと思う。環境測定はさらにきびしい条件にさらされることになる。いわく、秘密厳守。いわく、法規の知識等々である。とにかく、採算が明確でなかったら全体の足を引っ張るこ とになりかねない。
 以上のように、環境計量士としての役割は全くといっていい程、果たさなかったが、それでも不意の計量検定所の立ち入りや登録機器の定期的な検査があったのはもちろんである。別に苦痛に思ったこともないし、違反をおかすようなこともなかった。私がこの会社を立ち去った直後、若い社員が環境計量士の国家試験に2名合格したのは快挙である。素直に会社のレベルアップを慶祝したい。また将来の展開も期待できるだろう。
 さて平成17年3月末、サラリーマン生活をついに卒業した。とくに感傷にふけったわけでもない。75歳まで働いたことも別に勲章と驕っていることもない。成り行きに任せた人生の生き方がたまたまそうなったというだけである。しいて言うなら、行く先々の社風にできるだけ合わせる努力をしただけである。社風にあわせることも並大抵ではないが、ほかの方々で、いきなり前任の社風を押し付けたり、軽蔑した態度で接して失敗する例が比較的多い。そして、自分で平気でビーカー洗いするくらいでないと勤まらない。身の回りも、文房具や定期券など自分で整える位でないといけない。この意見には賛同して頂ける方も多いと信じている。
以上で、出向時代から続いた数社の遍歴の数々の記述を終わる。読み直すと、決して立派な遍歴とはいえない。しかし、一度も後味の悪い別離をしたこともないし、い つでもお世話になった職場に訪問できる。いささかも悪びれない態度で望める。ただ、代替わりになっているので顔見知りが年々少なくなって行くことはやむを得な い。
 いい忘れたことがある。コスモ石油のことだが、昭和63年10月末、私は離籍したが、その後も大勢の同胞に救われたことが実に多い。ほとんど、同時期に出向になった上田 亨さんなど全くその典型で、小田原から上京すると、いつも寄ってくれた。新橋の地下街で二人で一杯やりながら情報交換するのが本当に貴重な楽しみだった。しまいには、仲間がどんどん増えて来たことも思い返すと懐かしい。この店は今でも健在である。同期入社の方々とは年に1回の邂逅を首を長くして待っている。
 ついでに書き加えると、この同期会は私が10年間お世話し続けたのが今に至るまで継続している。千葉地区交遊会、幸手の桜樹会、千葉製油所の試験課OB会もつとめて出席して諸氏の教導を得ている。働きが決して良くなかったし、人の面倒見もさっぱりだった私を分け隔てなく遇してくれることが何よりも嬉しい。ついこの間も千葉試験課のOB会に出席したばかりだが、200枚の写真をCDとして送ってくれ、PCで見るのが長いけれど楽しい思いをした。
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