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山田 博

1.はじめに

  課題は、コスモ卒業後の近況ということであったが、一応、昭和58年春ごろから起筆したい。当時、もちろん丸善石油も健在であったが、赤坂の本社が自分としては最後の勤務となった経緯がある。この後は、出向の連続であった。結果的には、合併前後の社内事情をうかがい知ることもならず、圏外にいたことになる。
 一番初めの出向は、ある法人であった。高圧ガス取締法にも基づいて昭和40年代の半ば設立され、通産省の外郭団体であった。少し具体的に仕事の内容に触れると、工場・家庭その他で使用するガス器具のうちゴムホースやコック、自動遮蔽装置、ガス漏れ警報機などの国家検定を任務としていた。私の勤務先は、浜松の矢崎計器に2年、あと1年半が神奈川県のこの法人の中央検定所であった。読者が多分推定されるように、会社のような利益追求の場ではないので、内部の雰囲気もどこかのんびりしていた。
 私の身辺に変化が起こったのが、配属3年半経ったときで、出向解除を突然持ち出され困惑した。これより1年半前、かっての中研時代の上司であった村井さんも同じ法人から出向解除となり、何となく不安は感じていたもののわが身となると驚きを禁じえなかった。解除の理由は最後まで分らなかったが、法人の内部事情であったろう。

2.中国精油時代(昭和61年9月〜平成1年10月)

 日記をつける習慣がないためこの辺の期間について記憶があまり鮮明でなく、読者の方々にあらかじめお断りしておく。前記の法人を出向解除になったいきさつは、私にとって全く寝耳に水で、不愉快だった。当方には落ち度は全くないので胸を張って生き抜こうと決心した。しかし、村井さんは本当に気の毒だった。次の出向先でも冷遇に会ったらしく、晩年は不幸続きだったらしい。おまけに、何年か前に亡くなられ、奥様も亡くなられたそうだ。奥様の事だが、大層美しい方で、長年チョンガで女性にさっぱりもてなかった私にとってまぶしい存在だった。今でも容姿が目に浮かぶ。
 さて、つぎに私を迎えてくれたのは、中国精油だった。ここは、期間は3年あまりだったが、中味は大変濃い経験をした。この会社は名前は、石油会社であり、実際、岡山では中規模の潤滑油製造・販売をやっている。記憶のよい方々なら「石油製品ハンドブック(飯牟礼 渚著)」を覚えているだろう。この会社におられた方で、東大卒、旧海軍にも深い関係のあった方と聞く。戦前からの知る人ぞ知る名門会社だったらしい。岡山県や広島県では日本鉱業(現在の新日鉱ホールディング)や三菱石油(現新日本石油)のスタンドも委託されていた。コスモ石油は直接関係はないが、出向者は最初は私一人だったが後に3〜4人引き受けた有り難い会社だった。中研におられた尾崎さんもその一人であった。中研ではないが技術開発部におられた本橋さんもしかり。
 会社の紹介はこの位にして私の仕事は、最初、生産技術的なことを期待していたらしいが、この辺は明確ではない。次第に興味を覚えたのがワックスだった。ここの社長は、昭和13年生まれ、油の乗り切った感じでエネルギーにあふれた感じだった。私の生家は、木ろうを江戸時代に作り、紀州徳川家に納めていた歴史があり、ワックスのめぐりあわせに奇妙な出会いを感じたのもこの頃である。
 このワックスの出会いだが、出向して1年くらい経ったときの確か、昭和62年の暮れだったと思うが、一人のオーストラリア人が東京支店を訪れた。名前はローワンさんといい、取引先の責任者だった。このとき、出向先の社長をはじめ東京支店の数人が講習を受けた。示されたサンプルはbeeswax(日本名蜜蝋)といい。ミツバチの巣を構成するワックスであった。いい遅れたが、私の新しい勤務地は新橋の東京支店(本社は岡山)である。いろいろの取引先の方が現れるので、刺激的で面白かった。
 さてこの蜜蝋だが主だった用途は化粧品である。そのほか医薬品とか本来の役目ともいえるローソクも用途のひとつである。どういう動機か自分でも分らないが私はこの蜜蝋に以後2年間のめりこんでしまった。開発したユーザーが2年間で25社くらい、自分でいうのも変だが、この数字は今でも誇りにしている。このころの思い出が延長して今でも車窓から化粧品会社の看板を見ると懐かしい。ただ数量としてはまことに微々たる物でそんなに寄与した訳ではない。ただ、生涯初めてと言える営業活動がたとえ微々たる物とはいえ、努力の結果として表われたことにその後の人生観に影響したのも事実である。先祖の血が私の体内で騒いだのかもしれない。また、ワックス工業会の幹事も引き受けたりした。このワックス工業会から香料の原稿集めを依頼され、当時、高砂香料に出向されていた西下さんに仲介の労をとってもらったのも良い思い出である。
 結局、中国精油も平成1年10月に去ることとなったが、懐かしい出向先であった。また、コスモ石油からの出向者第1号として先導の役割を果たしたことも思い出に花を添えた。中国精油退職には暗い問題はない。文字通りの円満退職だった。退職後、お付き合いの機会も数回設けて頂いた。もっとも昨今では顔ぶれも変わり年賀状以外のお付き合いはない。
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