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  囲碁との出会い
  わたしと囲碁の出会いはもう大学に入ったとき以来だからもう40数年にもなる。私にこの趣味を教えてくれたのは大学に入学して、ほどなく友達になった同級の男だった。わたしは彼に麻雀を教え、彼はわたしに囲碁を教えてくれた。入学当初、しばらくは受験勉強から解放されて、これらのゲームに夢中になって遊んだものだった。わたしはそのまま遊びにふけって今に至ったが、純粋だった彼はほどなく、学生運動にのめりこんで赤軍派に入った。過激な活動に身を投じ、結局は中東の地で事故死したことを新聞の報道で知った。今となっては、わたしには囲碁という生涯の趣味をくれた彼に特別の思いを持ち続けている。
  幸手時代の囲碁の思い出 囲碁挿絵
  入社して研究所に配属され、稲毛分室から幸手に転勤してきたが、当時の雨宮所長や産業医の野口先生など碁好きが多く、囲碁部があって日本棋院の4段のプロ棋士が指導に来ていた。思い出すのは、正月の拝賀式のあと、ゲストハウスで囲碁大会が開かれた。当時ゲストハウスは若い社員は入ることが出来なかったので、正月には囲碁部員は優越感を覚えたものだ。幸手に限らず一般的に、囲碁を打つ人は年配者や上位者が多く、これらの人も勝負になると日ごろ見せない性格が見えるのは面白い。
 「人格者 対局中は へそ曲がり」
  また幸手の独身寮でもよくやった。仲良しだった先輩のKさんはお酒の強い人で、部屋に入ると一升瓶を横に置いて石を並べていた。そのKさんとは寮の娯楽室でよくやったが、彼は負けそうになるとビールを買ってきて酒の弱いわたしにしきりに勧める。そのうちだんだんわたしのほうは酔っ払ってきて、いい加減になり、少しずつ損を重ねて結局負けてしまうことが多かった。最近でもそうだが、酒を飲んで碁を打つといつも負けるのは幸手寮のKさんとの対局以来なのだ。
 「酒飲めば いつも勝ってる 人に負け」
  製油所から本社時代の囲碁の思い出
  仕事先が幸手から他に移っても囲碁はいつもわたしの傍にいた。千葉ではコンビナート近隣他社との対抗戦で、チッソ、日産化学、日曹油化の碁好きの面々と遊んだし、本社では石油他社との対抗戦で、日石、三菱石油、昭シェルなどの連中と打ったが、あまり勝って喜んだ記憶はない。たぶんいつも負けてたんだろう。
  囲碁大会といえば、もうかれこれ30年前になるが、イラクの製油所建設プロジェクトに派遣されていたとき、忙しい建設工事の合い間のお正月に、レクレーションのエベントとして元請千代田化工の関連会社として来ていた中国人の連中と囲碁、卓球、バスケットボールなどの対抗戦が開催された。わたしは囲碁と卓球に出場したが、中国勢は囲碁は案外弱くて日本勢が勝ったが、卓球は彼らの方がはるかに上手でコテンパンにやられた。そのとき囲碁のルールの打ち合わせで陣地の数え方が中国と日本では少し違うのには驚いた。やはり尖閣問題でもかの国は領土の考え方がわが国とは違っているのか。
 「願わくば 陣地争い 囲碁だけで」
  最近の囲碁
  会社をリタイヤしてからもところ変れどいろんな所で囲碁からは離れられない。
  退職後は人は会社から地域に戻るというが、わたしも近所の「公民館の囲碁同好会」 に入って、近くのおじさん方をもっぱらの相手としている。会員は20数名いて実力はほどほどだが、おかげで今までなかった近所の顔見知りもできて、散歩途中出会って挨拶などする人もできた。
  強いのはやはり「インターネット碁」 で、簡単には勝たせてもらえない。何回か勝ちが続くとだんだん強いのが出てくるのでそのうち負けが込んでくる。いくらでも強いのがいるから勝ち続けることはできない。またインターネットで面白いのは世界と繋がっているから24時間夜中でも、また外国の人とも囲碁ができる。
  定期的に開かれる「コスモの囲碁大会」 はOB囲碁愛好家にはうれしい行事だ。幸手と本社の囲碁大会、勝敗は抜きにして、むかしの仲間や先輩の元気な姿を見るのはなんとも嬉しい限りである。
  さらに、最近頼まれて、地域のボランティア活動」 として、近くの老人ホームで高齢者の碁の相手をしている。その人たちはほとんど初心者だが、結構喜んでくれているのがうれしい。
  こうやって長年にわたり碁をやっているが、最近は残念ながらどう見ても上達していない。
 年齢的な限界なのか。
 「石の上 何年経っても 石減らず」
  囲碁は生涯の趣味、どこにいても何をしていても私の傍らから離れない。
  年齢を経るほど趣味として囲碁の比重が増してくる。


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