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幸手入社一期生の頃

北田 景二

  「景ちゃんー、会社から電話ヨ〜。」自宅裏の田んぼのあぜ道で愛犬(コリー犬もどきの小型雑種)と遊んでいた時、自転車で探しに来てくれた叔母からの呼びかけだった。
 昭和44年の春、3月の中旬である。未だ自宅には電話がなく、近くの叔父の家が緊急連絡先になっていた。かなり待たせたはずの電話に出ると「お話したいことがありますので、明日本社にて来て戴きたく・・」という同期入社の女性、国友さんからだった。『あれ〜女性はもう本社で働いているのか・・こちらは3月下旬に、入社式と新入社員研修を千葉製油所で行うと聞いていたのに』と不思議な感じであった。
 当時、大手町電電ビルの本社内に「幸手事務所」が設けられ、幸手勤務に採用された女性達は一足早く本社で仕事のお手伝いをしていたとのことである。またこの電話相手の国友さんこそ、今の幸手のコスモ石油ガス研修センター事務職員として、20年ほど一緒に仕事をしている「現:船木啓子さん」であるところが面白い縁である。
 さて翌朝、学生服姿で本社を訪ねると、幸手勤労担当の臼井さんが待っていた。・・そしてここからが、高卒の幸手要員として入社した男性20名、女性10名の研究所勤務第一期生の同期軍団から離れ、別の道を歩むことになったのである。
 「あなたは幸手研究所勤務の予定で採用されましたが、実は千葉の稲毛に研究所の分室があり、新人を一名欲しいという要望があって、あなたに稲毛の研究所千葉分室に勤務してもらうことが決まりました。」との話である。
 「どのような理由で私に決まったのでしょうか?」とお聞きすると「入社試験での面接と作文からですね。」そういえば面接試験を3人並んで受けた時、「石油製品で何か一つ上げて戴くと何でしょう?」との質問に、「学校の実習に使う試薬のトルエンです。」と答えた記憶がある。
 隣りに座った者は「ガソリンです。」と答え、小川ローザ当時小川ローザが「Oh〜猛烈」で世間を賑わしていたことは全く頭に出てこなかった。『隣の奴はうまいこと言うな〜』と感心したものである。
 また作文のテーマは「私の家族について」であった。私の自宅は川越の田舎で理容室を母が営んでおり、兄が理容学校に通い始めたところだった。祖母と父、姉を含んでの6人家族のことを綴った内容であった。「あなたの作文で、分室に行っても真面目で明るく勤務してくれると判断しました。」
 こうして私の社会人生は千葉分室からスタートとなった。分室では皆さんに非常に可愛がって戴いた。敷地には桜とタンポポがきれいに咲いていたのが印象的である。
 稲毛分室で1年勤めて幸手に来ることが出来た。中央研究所・商品研究所 昭和44年完成(クリックで拡大)それ以来同期入社のメンバーとは楽しいつながりでお付き合いできている。なお当時稲毛の土地は国からの借地であり研究活動を続けないと払い下げがして貰えなかった状況と聞いた。その数年後、稲毛社宅が建ったのである。入社当時にまつわる話はこんなところ。
 幸手に来てからも寮生活や卓球部、そして美術部など楽しいことが一杯有り過ぎて、とても紹介出来ない。今もシニア社員として、販売部東京研修センターに勤められていることは非常にありがたく、大勢の皆さんに感謝が尽きない。           △ページトップ


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