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石川 忠雄

(写真の一部はクリックすると拡大)
 後期高齢者と呼ばれる歳も間近くなり、最近「チップス先生 」のように目を閉じてうつらうつらしていると、50数年前の下津の光景が脳裡に浮かんできます。
 私の記憶で記述するので、勘違いや間違っている箇所はご訂正、ご勘弁をお願いします。
 昭和28年、中央研究所が設立され、私も社会人として出発した年で非常に印象深い年ですが、振り返りますと
1月 秩父宮死去
2月 NHKTV東京で放送開始、「ジェスチャー」始まる。

   南正門

   吉田首相、バカヤロー発言で衆院開散。
3月 スターリン死去、株価暴落。
4月 保安大学(防衛大の前身)が開校。
7月 朝鮮戦争の休戦成立。
 和歌山県で大水害。
 ラジオでは「君の名は」。
 映画では「禁じられた遊び」「ここより永遠に」「第三の男」「誰が為に鐘は鳴る」。
 音楽では「テネシーワルツ」「キッスオブファイヤー」「ヴァイヤ・コン・デイオス」「思い出のワルツ」そして「芸者ワルツ」などが流行っていました。戦 後の復旧と朝鮮戦争の特需で景気は上向き、経済成長率は毎年2桁の状態でした。
 このような世相を背景に丸善石油では中央研究所をとりあえず下津製油所内に設立しました。私の入社した昭和28年初頭のことです。中央研究所の建物はそ れまで試験室として使用していた製油所旧正門に近い事務所の奥側、面積は定かでありませんが、小じんまりした(50〜60坪?)鉄筋コンクリートの2階建 てで、部屋数も5つ6つでした。

   中央研究所

 ここに20名足らずのスタッフ(元試験課課員)がいました。
研究所の初代所長は景平一雄氏(以下敬称略、さんで呼ぶ)、組織は一課から四課で成っており、
 一課は調査と総務で上妻常英課長、森川 衡、山田、田中靖子、川口郁子。
 二課は分析で課長檀豊三郎、野崎武二、三好亮二、中村房子。
 三課は燃料油で林喜世茂課長、金崎健児、渋沢芳雄、飯島、山下育夫。
 四課は潤滑油で古屋和彦課長、澤田祥充、酒井芳紀、且田義一、森本茂治、
               小森輝隆、宮崎美明。
 28年春、研究所の補助員(高校卒対象)の募集があり、応募して採用されました。入社試験、入社後実習中の我々の世話は製油所勤労課、人事係長の池内昭 雄さんと研究所の金崎さんが面倒をみてくれました。
 ちなみに製油所所長は上田 博氏、副所長は大岩哲夫氏(2代目研究所所長)勤労課長は九鬼隆男さんでした。大学卒の新研究員6名と我々補助員12名が配 属されました。
(うち1人高垣さんは電気の特殊技能があり、製油所の電気課へ転配属)
大学卒の配属は一課はなく、
二課、杉 昭男、三宅 坦

   二課課員

三課、小松洋二、岡田冨男
四課、小西誠一、井坂利夫
補助員の配属は
一課 阿瀬久子(我々とは別のルートで入社。英文タイピスト)
二課、前田勝正、山口 勝、それに私
三課、秋月秀夫、中原 薫、中筋晟伍
四課、長谷川辰三、川島栄三、玉置保雄、矢田義治、鈴木正則
 先ほど「とりあえず、研究所を下津製油所内に置いた」と書きました。面接の際も入社後もすでに研究所移転の話があり、東京地域へ移っても転勤できるかと の打診もありました。実際幸手への移転はそれから20年近くして実現します。当時は東京三鷹という噂も出ていました。仕事はまだ準備、基礎研究の段階で私 は野崎さんの指導に従い、石油の一般試験実技、実験用に使用する溶剤の精製、使用する器具の洗浄などをしていました。
 実技には試験室から川端 裕、木本 節、宮本、山東の4人がインストラクター(後に研究所に転籍)として来ました。仕事の合間ではそれまで触れたことも ない石油精製、試験法、有機化学などの本も読んで勉強しました。
 当時の下津製油所の敷地は下津町側のみでした(後に西工場となる加茂郷側は通称シベリアと呼ばれて開発がまだ始まる前後の頃でした)。ここ(下津側)は 山から海までの狭い間隙に工場やタンクがあり、下津駅から工場までは小さな町を抜けると山沿いの道を歩きました。丁度アルファベッドのDを逆にしたCの形 に歩きます(Cの下の部分に製油所の入り口があり)。工場正門の前は湿地帯で満潮時は浅瀬になりました。ここの埋め立て工事が既に始まっていました。潮まねき
 下津は天然の良港で水深も深く、大型船が自在に出入りし、岸壁に横付けできました。今では考えられませんが、製油所の岸壁近くに石炭ボイラー工場があ り、タンカーだけでなく石炭船も入港していました。この工場から出る石炭がらと山を削った土砂で埋め立てをしていました。
 この干潟には無数の赤いはさみをもった潮まねき(かに)がいて、引き潮のときには「かに天国」の様相でしたが、埋め立ての犠牲になりました。
二課課員
 旧中研正門前

 これも今では考えられませんが製油所内で発破をかけ、ダンプカーの未だない時代でしたから、取り崩した土砂(石)は線路を敷いたトロッコで人夫が運んで いました。発破をかける箇所には塀で囲み、破片が飛び散らないよう防柵を作っていました。後年この工事で生まれた用地には、山側には原油タンク、埋め立て た海岸側には道路、南門、診療所、それにドラム缶洗浄工場が完成しました。
 タンカーといえば戦後日本にはまだ大型タンカー(大型といってもせいぜい1万トン級)がなく、ノルウエーやオランダ(シェル)のタンカーが主流だったよ うに思います。おおらかな時代で接岸しているタンカーを訪船して見学させてもらった事もありました。捕鯨船の第2図南丸や自社船つばめ丸が入港するのは昭 和30年代になってからです。また、山側の社有地の奥は農家のみかん畑になっており、その境界近く50Mほど登った所に赤い屋根のしょうしゃな山小屋風の 「ユニオンコテージ」がありました。
 ここはタンカーの船長(夫人も同伴)らを歓迎、慰労、宿泊するためのもので、元パーサーの川崎さん(小柄で温厚な当時50〜60歳代)が管理されていま した。訪問すると気さくに案内してくれました。ここにはゴルフの練習ケージもあり、初めてゴルフクラブを触らせてもらいました。「クラブは両手を雑巾を絞 るようにして」と教わったことを思い出します。
 7月になると和歌山県で集中豪雨による大洪水が発生。17日夜から18日に県内で1000人以上の人が死亡するという大災害になりました。18日はちょ うど湯浅の夏祭りの日だったこともあり、よく憶えています。私は当時、下津町から南へ約20Kmの湯浅町から通勤していました。今と違って報道の遅れてい た時代で、ラジオはあっても天気予報は役に立ちません。18日朝通勤時間の7時過ぎに湯浅駅へ行くと、紀勢線が昨夜からの大雨で不通になっていることを初 めて知りました。駅の近くを流れる広川の様子を見に線路づたいに歩きました。鉄橋すれすれにまで増水した濁流にゴミ、木材、小屋のようなものまでが橋げた にぶつかり、砕け、下流に流れていくのが見えました。
 湯浅と下津の間には大きな有田川があります。この有田川ではもっとも悲惨な水害事故が起きていました。湯浅から下津製油所に通勤する10数人が集まり、 (普段から緊急に備え、地域ごとの社内組織表ができていたように記憶している)世話役の上野山さん(製造一課)が手配して湯浅から下津まで漁船を用船して 出勤しました。
 鉄道の復旧する目途が立たず、私たちは独身寮に分散して寄宿することになりました。私はシベリア近くの塩浜寮に入ることになり、2人部屋の小西さん、三 宅さんの部屋にお邪魔することになりました。
  紀勢線が復旧するまでの数か月、両先輩と一緒に過ごし、それまで出会ったことのないインテリジェンスな空気に接し、私はカルチャーショックを受けました。 その後、岡田冨男さん石田和義さんの両上司からも同様の薫陶は受けました。
 秋には紀勢線も復旧し、また湯浅からの通勤を再開しました。野崎さんが幹事役で私がお手伝いして研究所初めての慰労会をする事になりました。

  マツタケ狩り
私の中学生時代の同級生の山(湯浅町字山田)でマツタケ狩りすることに決定。マツタケは大豊作、皆んなマツタケをひもに通して両手にぶらさげ、写真を撮り ました。その後、旅館(湯浅の生駒旅館)へ行き、マツタケを入れたすき焼きを食べ、飲んでお開きになりました。宴会の後にはひもに通したマツタケが何本か 忘れられていました。今ではウソのような本当の話。これが私の昭和28年でした。「ALWAYS三丁目の夕日」よりさらに5年前の話です。

後記
 当時の上司、先輩には他界された方も多く、心からご冥福をお祈りしつつ書きました。

投稿の付記

近況
 現在、私はやや難聴、腰痛などありますが、一応健康に恵まれ、週1〜2回、年相応のテニスとスイミングを楽しんでいます。
 ゴルフは年数回、お誘いに応じてコースを廻る程度です。
 また、有機栽培の家庭菜園もしております。秋にはテニスコートのまわりに植えられている桜の落ち葉をコートの清掃を兼ねて集め、家庭から出る生ゴミと合 わせて堆肥を作っています。農薬は出来るだけ使用しないようにしています。
 パソコン教室にも通い、NHK(TV)による英会話もなかなか上達しませんが、つづけています。

「チップス先生」
 ジェームス・ヒルトン作の小説、「チップス先生さようなら 」昭和30年代のベストセラー、映画化もされ、最近でもTVで放映されていました。
 数年前、ロンドンに滞在していた時、ロンドン郊外にあるウィンザー城(エリザベス女王の週末の居城)とチップス先生が教鞭をとったパブリックスクールで 有名なイートン校を見学に出かけました。イートン校はテムズ川を挟んでウィンザー城の対岸にあり、テムズ川もここまでくると川幅も狭く(20〜30Mくら い)流れも早くなります。浅瀬には数10羽の白鳥が休んでいました。
 残念ながら校内には入れませんでしたが、道路沿いのレンガ造りの校舎を見ることができ、チップス先生をイメージしていました。
以上
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